私がカフェの研究を始めた当時、よく人から「大学院でカフェの研究なんてできるの?大学院も変わったね」と冷ややかに言われたものでした。カフェなんて研究する価値があるのという彼らの疑問に対して私が抱いていた答えは、カフェはその底力を発揮したときに、計り知れない力を持つ場である、ということでした。そこは社会を変える発端の場となるかもしれない。新しい文化が生み出されて行くかもしれない。実際にヨーロッパ、特にパリやウィーンのカフェでは、19世紀後半から20世紀前半にかけてそういった動きがあったのです。あるカフェに出会ったことで、運命が劇的に変化していく人たちがいます。彼らの言葉を通して、少しでもカフェという場の力強さ、可能性に耳を澄ませてみませんか。
「あらゆる新しいものに対する最良の教養の場所はつねにカフェであった。」
シュテファン・ツヴァイク『昨日の世界』より
ウィーンのカフェに若い頃足しげく通っていたシュテファン・ツヴァイクという作家の言葉。19世紀末のウィーンのカフェは芸術談義のメッカで、カフェから「青春ウィーン派」のような文芸一派が誕生しました。
「デュシャンがアメリカに戻り、彼の友人がアパートに戻って来たので、わたしはモンパルナスのあるホテルに部屋を取った。あちこちのカフェにたむろする習慣ができると、新しい知り合いが容易にできた。」
マン・レイ『セルフ・ポートレイト』より
写真家のマン・レイはアメリカからフランスに来た初日からシュールレアリストたちに歓迎され、パリの自由奔放さに目を丸くします。しばらく経ってから、彼は自分には馴染みのなかったモンパルナスという地区を訪れ、カフェを中心とした雑多な国際性が気に入り、モンパルナスに引っ越すことに決めました。のちに恋人となり、モデルとなるキキともモンパルナスのカフェ、ロトンドで出会うことになるのです。
「そのころ、たれかれの関心を奪っている事柄はすべて毎日の論議の対象に供され、その全部をひっくるめて、極めて活発な、和気あいあいとした論争が行われたものです。(対抗意識の生じるのは、もっとあとになってからです)。私たちのあいだで、思想の共有ということが、なんら個人的な制約なしに行われた、ということができると思います。」
アンドレ・ブルトン『シュールレアリスム運動の歴史』より
シュールレアリズムの創始者、アンドレ・ブルトンの言葉。ブルトンはじめ、シュールレアリストたちは毎日のようにカフェに集い、議論を交し、様々な遊びを発明してインスピレーションを得ようとしていました。初期の彼らが集まったのはオペラ座近くのカフェ、セルタ。それからブランシュ広場近く(モンマルトルの丘の麓)のカフェに集うようになりました。
「午前中、だんだんとキャフェ内の客は増え、アペリチフの時間のころになるといっぱいになった。ピカソは大きな犬にくさりをつけたドラ・マールに微笑し、レオン=ポール・ファルグは口をつぐんでおり、ジャーク・プレヴェールはしゃべっていた。1939年来毎日ここに集まって来る映画人達のテーブルは議論で花が咲いていた。」
ボーヴォワール『女ざかり(下)』より
作家のシモーヌ・ド・ボーヴォワールは哲学者のサルトルとともにカフェ・ド・フロールに通っていたことで知られています。1930年代後半から、サン=ジェルマン・デ・プレのフロールには映画関係者を中心とした文化人たちが集まってきます。特に戦時中のフロールは彼らにとってのかけがえのない避難所となりました。
「フロールには特有の風俗とイデオロギーがあった。毎日そこに集まる常連の小さな集団は、完全にボヘミヤンに属してもいなければ、まったくのブルジョワでもなかった。大部分の者は映画や演劇の世界に何らかの関係があり、不確実な収入と、やりくり算段と、希望とで生きていた。」
ボーヴォワール『女ざかり(上)』より
「自分が今までに書かなかったし、失くしもしなかったことで、一番良く知っていることは何だろう?本当に知っていて、最も関心のあることは何だろう?選択の余地は何もなかった。ただ、自分の仕事場へ一番早くつれもどしてくれる街路をえらぶことだけが残されていた。私はボナパルトを上がってギヌメールへ出、それからアサ通りへ行き、ノートルダム・デ・シャン通りを上ってクロズリ・デ・リラへ着いた。 私は午後の日ざしを肩越しに受けながら、そのカフェの片隅に坐って、ノートブックに書いた。」
ヘミングウェイ『移動祝祭日』より
アメリカからパリにやって来たヘミングウェイが行きつけにしていたのはモンパルナスのクローズリー・デ・リラ。モンパルナスの有名カフェが集まる場所から少し離れたこのカフェは、そのころはとても静かなカフェでした。この店には緑あふれるテラスがあり、1900年代初頭にも詩人たちにインスピレーションを与える場としてとても愛された店でした。
「休戦が成立して、市民生活が次第に落ち着きをとり戻す。この時フロールの経験したまったく思いがけない変化は、当時の常連が異口同音に指摘するほど忘れがたいものだった。フロールは今やちょっとしたサン=ジェルマン地区の事件と化す。夜間外出禁止令のため、誰も遠くへ行けなかった。そのため、ここがスエズやパナマ運河同様〈不可欠の通路〉になったのだ。作家達が店内で仕事をし始める。暖房や食料があまりにも乏しく、人々はカフェに集まるほかなかったのだ。」
ボリス・ヴィアン『サンジェルマンデプレ入門』より
作家でもありミュージシャンでもあるボリス・ヴィアンもまたサンジェルマンデプレのカフェに通い、『サンジェルマンデプレ入門』では「実存主義者」と呼ばれた若者達のイメージと現実との違いを描いています。カフェ・ド・フロールが成功した理由の1つに、当時まだ珍しかった石油ストーブが挙げられます。戦時中のパリの冬は凍てつく寒さで、不安な心を抱えた人たちが、あたたかい場所で、誰かとともに過ごしたいと思ったとき、フロールはまさにここにしかない居場所だったのです。
「ひとびとはバァのおやじの役割というものに批評精神を向ける習慣をあまりもたない。おやじというものは、真の文明を維持していく上で、有力な位置にあるひとたちなのだ。」
ルイ・アラゴン『パリの農夫』より
シュールレアリズムが始まったばかりのころ、アラゴンやブルトン達はオペラ座近くのカフェ、セルタに集まり、日々議論を交していました。セルタが選ばれたのは、お酒が美味しかっただけではなく、主人と店員さんの気配りが優れていたから。当時まだダダイストと呼ばれ、世間を恐れさせていた彼らを「ダダイスト」ではなく、一人の人間として普通に扱う。だからこそ彼らも安心して本来の自分を出すことができ、居心地の良さを感じることができたのです。
「この店のおやじがどれほどつつしみ深くて機転がきくかということも、即刻いっておかねばならない。ぼくはおやじが、怒りっぽい客や、どうにもいただけない振舞いをしでかす客をさばきながら、彼が誇りとしていた基地で、難場を切り抜けるところを見たことがある。(中略)こういう人間の控え目な知性のおかげで、ちょうどセルタで注意深く保たれている雰囲気と同じような、真心と優しさのこもった雰囲気を自分のまわりに感じることは、じっさい気持ちのいいものであり、心の慰めになる。」
ルイ・アラゴン『パリの農夫』p93